断片1

「大丈夫だよ、ドクター。普通の人間なら君や彼の力には勝てっこない。絶対に勝てない。機械の腕は人間サイズの油圧式ジャッキと同じだからね。でも、僕は吸血鬼なんだ。そして吸血鬼は、君達の想像をはるかに上回るほど力が強い」
吸血鬼はそう言うと、手をズボンのポケットに差し込んだ。
「ドクターは一ペニー硬貨を四つ折りにできるかい?」
「まさか。そんなこと想像すらしたことがないよ」
「だろうね。ドクター。僕にはそれができるんだ。やろうと思えばだけどね。ほら」
そう言って彼が投げてよこした金属片は、確かに女王陛下の横顔を内側に四つ折りになった一ペニー硬貨だった。
「それじゃ試合は腕相撲だったね。始めようか」

吸血鬼が袖をまくり、青白い肌を露出した。彼の拳は身体改装主義者のそれの半分の大きさもない。
「華奢な腕だな。拳自体が潰れそうだ」
「遠慮はいらないよ」
二人は拳を握り合った。
「準備はいいな?」
立会人がそう言って、握り合った拳を丁度十二時の位置に調整した。
「そこの異形頭の旦那、あんたも立会人だ。レディーゴーの合図はあんたが言いな」

勝負は一瞬で決まる、そう誰もが考えたに違いない。
だが、吸血鬼は「大丈夫」と言った。吸血鬼は私の知る限り嘘を言ったことがない。
「レディー……ゴー!」

合図とともに二人は腕に力を込めた、のだろうか。
両者とも微動だにしない。

十五秒。
周囲を白い煙が流れていく。
改装主義者が義装の出力を上げたのだ。
しかし、吸血鬼は表情を変えないままである。
方や勝負の相手は全身から汗を迸らせている。
「ほら、頂上を超えていかないと勝てないぞ」
吸血鬼は優しい顔で、改装主義者を挑発した。
「君ほどの力があれば、船を曳いてテムズ川を遡ることもできると思う。でもね」
改装主義者の背中でボイラーが火を吹いた。
「この程度の力で僕をねじ伏せることはできない」
改装主義者は唸り声を上げる。だが、彼がどんなに出力を上げようとも、二人の肘はテーブル上で静止したままである。

「これから君の腕を破壊することになると思うけど、恨みっこなしだよ。これは君の側から挑んできた勝負なんだからね」
吸血鬼が腕をゆっくりと傾けていく。力が入っているとも思えない。表情も変わらない。
「君が自分の身体を改装するのに掛かった費用、情熱、適応するための血の滲むような努力、時間、訓練。それはこんなところで浪費すべきものではない」
吸血鬼がそう言い終えた直後、改装主義者の手首と肘の中間で、鋼鉄の腕がぐりゃりと曲がった。

や、ご無沙汰してます

ご無沙汰してます。神沼三平太です。
我が家の猫お嬢様は順調に育っております。もう成猫の貫禄を出し始めましたが、まだまだおてんば娘です。

そうそう。告知であります。
また実話怪談の単著を出させていただきます。
2月末に刊行されます。
どうぞよろしくお願いいたします。

しかしブログ続かなくてなんかすごく心苦しいというか何というか。ツイッターはやってるんですけどね。

また本が出たら、いやいやもっと早く更新したいですね。

それより、WordPressの機能がよくわかっていないのが問題なのかも。

怪異聞き「歪な女」

 こんな場所で、仕事として成立するのだろうか。
 通りがかった者は、誰しもその人影を見て、少しばかり疑問に思う。ただ、その疑問は、数歩歩くだけで体から抜け落ちてしまう。
 印象が薄い。
 通りすがる人々は、家に帰って家族の顔を見たり、待ち合わせの場所で恋人と逢ってしまえば、そんな処に男が座っていたなんてことは、記憶の片隅にも残らないだろう。
 都電の東池袋駅から池袋方面に少し歩いた所から、左に折れた路地に、男は文台に白い布を掛けた「店」を出していた。その前面には、墨書きで「怪異聞き承り〼」と書かれた和紙を下げている。日暮れの頃から座り続けているが、客は一人もついていない。
 あえて客がつかないようにしているかのような振る舞いだ。
 時たま都電から人が吐き出されていたが、次第に人影もまばらになっている。
 そのまま、静かに時間が過ぎて行き、午前一時を過ぎた。
 都電の終電が出た。人通りが絶えた。
 通りは池袋駅方面から走るタクシーが通り過ぎる以外、車通りもまばらだ。
 大通りに面した、オレンジ色の看板の牛丼屋にも人は入っていない。
 だが、男は、そのまま文台を片付ける気配を見せなかった。何かを待っているようだ。
 そこに、不意に一人の女が現れた。
「すいません」
 女はか細い声で男に声を掛けた。
「お話、聞いて下さいますか?」
 その声を聞いて、
「どうぞ。お待ちしておりました——」
 凛とした男の声が応えた。

 女は歪な格好をしていた。
 顔の左右が非対称だ。肩の位置が違う。体が捩じれている。右足の膝の辺りは、関節が二つあるように曲がっている。
 あたかも複数の互換性の無い人形のパーツを混ぜ合わせて、無理矢理一つの人形を作ったように見えた。
「怖い話でないと、いけないんですか?」
「そんな事はありませんよ」
「何を話せばいいんですか?」
「話していただけることであれば何でも」
「長くても良いのですか?」
「もちろんです」
「短くても良いのですか?」
「もちろんです」
「安心しました。では、ご迷惑かもしれませんが——お話させていただきます」
 そして、
「あたし、一昨日、父の所から逃げて来たんです」
 と、女は話し始めた。

 父は、酷い男でした。
 酔うとね、娘のあたしに暴力を振るうんです。
 何か仕事とかで嫌なことがあると、
 母もね、そんな父に愛想を尽かしたんでしょう。あたしを置いて出て行きました。昔はね、母も奇麗だったんですよ。でも、出て行った頃には、酷かったです。両目は視力がほとんど無かったみたい。
 でもね、出て行っただけじゃなくて、そのまま川に身を投げて死んだそうです。
 遺書はあったそうですけど。
 それから、父の折檻は酷くなりました。火箸をコンロで焼いてね。それであたしの体に字を書くんです。
 母の名でした。
 そうよね。
 痛かったし、辛かったんですけど、母の事を愛してたんでしょうね。
 そうだわ。でも許せない。
 だから刺したんです。血が一杯流れてね。

 暗がりの中で、細い女の声が増えて行く。
 ぼそぼそと話する女の横に、もう一人二人、女が立ち、話している内容に、相づちを打っている。
 ただ、その相づちを打つ声が話す内容は、支離滅裂だった。嫌な記憶を単にこねくり回しては、女の話す声に重ねているようだった。

 刺した時にね、ぐえっと言いましたよ。ぐえっといった。いったわ。
 でも、その時に、父はあたしの顔に手を伸ばしてね、顔を引っ掻いたんです。
 目に指が入ってね。
 目に指が入ったわ。
 目にね。
 目。
 女の目は、歪な小さな顔に変わっていた。それも何かを話していた。
 歪な女のあらゆる部分が、歪な小さな女になっていき、それが一斉に話し出した。

 誰も言葉として聞き取ることが出来ないような。羽虫の羽ばたきが幾百も重なったような音が、路地に響いている。
 男はただ、聞いている。
 羽音のような音がし始めてから、数分が経っただろうか。
 「嘘だ!」
 女が声を上げた。
 精一杯の叫びのようだったが、それは喉を絞った、歪んだ針のようなか細い声だった。
 だが、それが合図だったかのように、歪んだ女に浮き出た、歪んだ女達の口から、
「嘘をつくな!」
「いい加減なことを言うな!」
「違う!」
「本当の事を言え!」
「本当の事を!」
 と叫びが上がった。
 声がするたびに、ずるりと、皮が剥けたかのように、女の一部が路地にずり落ちた。
 ずり落ちた身体の一部は、アスファルトに落ちる前に、黒い靄のように変化し、風に流されて行く。

「嘘だ」

 身体からあらゆるものがずり落ちて、最後、女の体は細い細い針のような姿になり、ついにはそれも消えて、とうとう影のようなものになってしまった。
 怪異聞きの男は、歪んだ女が影のようになったのを見届けると、
「まだ、貴女の最後の一言を聞いておりません」
 と、声を掛けた。
「こんなことまで話すはずじゃなかったのに」
 影が声を上げた。
「あたしの言った事、全部嘘なんですか? もう本当か嘘なのかも分かりません。自分が嫌いです。醜くねじけて、歪で、いじけて、本当に嫌いなんです。もう嫌なんです」
 女の声に、怪異聞きは、本当に澄んだ澄んだ声で、
「あなたなんて、消えてしまえばいいんですよ。もうとっくに死んで、魂も千切れているのですから」
 と言った。
「え——」
「貴重なお話を、どうもうありがとうございました」
 男の一言に、影は何かに気づいたように立ち尽くすと、はらはらと散って行った。
 天頂に満月の冴え冴えとした夜のことであった。

怪異聞き外伝 朱の水引

「年末ですし、僕の師匠の師匠の、さらに先代の師匠の話でもしましょうか」
 庭を見ていた青年は、ぽつりとそう言った。
「昔々、ずっと昔のことですけどね。師匠の元に、遊女が一人来て、助けてくれ、助けてくれないなら殺してくれと言ったそうです。見ると、片目が無くて、手の指も何本も欠けていた。そもそも遊女になるような女は、生まれたときから苦界にいるようなものですからね。そのほとんどは、金で買われて弄ばれて、良い目を見る事無く息絶える訳です」
 私はすぐに、都電三ノ輪橋の駅からすぐのところにある浄閑寺のことを思い出した。吉原に近い場所で、投げ込み寺として知られる。つまり、吉原で亡くなった遊女の死体が投げ込まれた寺だ。寺ではそうして投げ込まれた遊女たちを、無縁仏として供養したという。
「師匠は、人は人の事を救おうとしても簡単には救えるもんじゃないって言ったそうですよ。でもね、その遊女に、こう持ちかけたんです。一年間だけお前さんの運を上向きにしてやる。上向きにしてやるけどな、只って訳じゃねえぞ。来年の大晦日にまたここに来て、その時にあんたが俺に何を言うかで、そのお代をもらおうじゃねえかってね」
 その何代も昔の師匠という人は、青年のように、怪異聞きを生業としていたのだろうか、それとも何か別の仕事をしていたのだろうか。だが、私はそれについては問わず、青年の語るがままに任せることにした。
「それから一年が過ぎて、大晦日になりました。当然約束なんて守るはずはない。女は絶対に来ないと思っていたんですよ。だって、女郎の誠と四角の卵、あれば晦日に月が出るって戯れ歌もある位ですから。正直者の遊女なんている訳が無い。でも女は来た。ただちょっと様子がおかしい。それを見て師匠は納得したそうです。女がね、薄ぼんやりと青白く光っていた。つまりもう女は死んでたんです。幽霊だった。その幽霊が、師匠の前にすうと立って、お約束通り参りました、と言うんです。師匠があれからどうだったかね、と尋ねると、ええ、間もなくコロリと死ねました。ありがとうございました。死ねて良かった、もう痛くも苦しくない。身体を切り取られながら男に抱かれなくても済む。ありがとうございましたと言ったんです」
 幽霊になったって苦しさが減る訳でも無いでしょうにねえ、と青年はぽつりとつぶやいた。
「その女も屍体は簀巻きにされて投げ込み寺に放りこまれたんでしょうけども、まるで回向されていなかった訳ですね。恨んでるかと言えば恨んでいる。悲しんでいるかと言えば悲しんでいる。けれども女の中心はそのどれでも無かったようです。師匠は一晩ずっとその女の話を聞いてね、女が何度も何度も仕方ないって言うのを聞いたそうですよ。貧しく生まれたから仕方ない。女郎になったから仕方ない。悪い男に引っかかったから仕方ない。生きていくには仕方ない。そして一晩ずっと話し続けた挙句、最後に女が一言、お代はいかがいたしましょうか、と尋ねたそうですよ」
 私は、話を聞きながら、何とも痛ましい気分になった。だが、もう亡くなっている方が、どうやって代金を支払うのだろう。
「よし、お前は俺に憑いてこい。これから俺がお前が消えるまでいい目を見せてやるってね、師匠はそんな女達の首を、朱い水引で縛ってね。いつも後ろに何人も連れて歩いてたそうですよ。お前らにいい目を見せてやる。俺がお前らを満足させてやるってね。そりゃ師匠に話を持ってくる人の中には、他人を恨んだり悲しんだりしている奴らも山ほどいたんでしょうけど、師匠はそういうのには興味がなかったみたいですね。いつでも感情が無くなっているような女ばかりを連れて歩いていた。それも死んでしまった女ばかり。幽霊ばかりですよ」
 そういえば、青年も確かに朱い水引を首に巻いた若い女を引いていた。あれは幽霊だったのか。
「連れ回している女は、最後に、号泣するんです」
 思考を読み取られたのかと、私はどきりとした。
「生きている間に世の中に貸してたものを、女が全部返してもらった時にね、女は感情を思い出したように号泣して、それで最後、消えていくんですよ。浄土に行くのやら地獄に行くのやらは分かりませんけどね。まぁ、師匠は、死んでも死に切れてない女達を、最後まで看取っていたんでしょうかねえ」
 青年は庭を見ていた視線をこちらに向けると、
「あなたも、早く消えることができるといいですね」
 と言った。その言葉で、私の分の水引を、青年が持ちあわせていないことに気づかされ——私は酷く悲しかった。