「年末ですし、僕の師匠の師匠の、さらに先代の師匠の話でもしましょうか」
庭を見ていた青年は、ぽつりとそう言った。
「昔々、ずっと昔のことですけどね。師匠の元に、遊女が一人来て、助けてくれ、助けてくれないなら殺してくれと言ったそうです。見ると、片目が無くて、手の指も何本も欠けていた。そもそも遊女になるような女は、生まれたときから苦界にいるようなものですからね。そのほとんどは、金で買われて弄ばれて、良い目を見る事無く息絶える訳です」
私はすぐに、都電三ノ輪橋の駅からすぐのところにある浄閑寺のことを思い出した。吉原に近い場所で、投げ込み寺として知られる。つまり、吉原で亡くなった遊女の死体が投げ込まれた寺だ。寺ではそうして投げ込まれた遊女たちを、無縁仏として供養したという。
「師匠は、人は人の事を救おうとしても簡単には救えるもんじゃないって言ったそうですよ。でもね、その遊女に、こう持ちかけたんです。一年間だけお前さんの運を上向きにしてやる。上向きにしてやるけどな、只って訳じゃねえぞ。来年の大晦日にまたここに来て、その時にあんたが俺に何を言うかで、そのお代をもらおうじゃねえかってね」
その何代も昔の師匠という人は、青年のように、怪異聞きを生業としていたのだろうか、それとも何か別の仕事をしていたのだろうか。だが、私はそれについては問わず、青年の語るがままに任せることにした。
「それから一年が過ぎて、大晦日になりました。当然約束なんて守るはずはない。女は絶対に来ないと思っていたんですよ。だって、女郎の誠と四角の卵、あれば晦日に月が出るって戯れ歌もある位ですから。正直者の遊女なんている訳が無い。でも女は来た。ただちょっと様子がおかしい。それを見て師匠は納得したそうです。女がね、薄ぼんやりと青白く光っていた。つまりもう女は死んでたんです。幽霊だった。その幽霊が、師匠の前にすうと立って、お約束通り参りました、と言うんです。師匠があれからどうだったかね、と尋ねると、ええ、間もなくコロリと死ねました。ありがとうございました。死ねて良かった、もう痛くも苦しくない。身体を切り取られながら男に抱かれなくても済む。ありがとうございましたと言ったんです」
幽霊になったって苦しさが減る訳でも無いでしょうにねえ、と青年はぽつりとつぶやいた。
「その女も屍体は簀巻きにされて投げ込み寺に放りこまれたんでしょうけども、まるで回向されていなかった訳ですね。恨んでるかと言えば恨んでいる。悲しんでいるかと言えば悲しんでいる。けれども女の中心はそのどれでも無かったようです。師匠は一晩ずっとその女の話を聞いてね、女が何度も何度も仕方ないって言うのを聞いたそうですよ。貧しく生まれたから仕方ない。女郎になったから仕方ない。悪い男に引っかかったから仕方ない。生きていくには仕方ない。そして一晩ずっと話し続けた挙句、最後に女が一言、お代はいかがいたしましょうか、と尋ねたそうですよ」
私は、話を聞きながら、何とも痛ましい気分になった。だが、もう亡くなっている方が、どうやって代金を支払うのだろう。
「よし、お前は俺に憑いてこい。これから俺がお前が消えるまでいい目を見せてやるってね、師匠はそんな女達の首を、朱い水引で縛ってね。いつも後ろに何人も連れて歩いてたそうですよ。お前らにいい目を見せてやる。俺がお前らを満足させてやるってね。そりゃ師匠に話を持ってくる人の中には、他人を恨んだり悲しんだりしている奴らも山ほどいたんでしょうけど、師匠はそういうのには興味がなかったみたいですね。いつでも感情が無くなっているような女ばかりを連れて歩いていた。それも死んでしまった女ばかり。幽霊ばかりですよ」
そういえば、青年も確かに朱い水引を首に巻いた若い女を引いていた。あれは幽霊だったのか。
「連れ回している女は、最後に、号泣するんです」
思考を読み取られたのかと、私はどきりとした。
「生きている間に世の中に貸してたものを、女が全部返してもらった時にね、女は感情を思い出したように号泣して、それで最後、消えていくんですよ。浄土に行くのやら地獄に行くのやらは分かりませんけどね。まぁ、師匠は、死んでも死に切れてない女達を、最後まで看取っていたんでしょうかねえ」
青年は庭を見ていた視線をこちらに向けると、
「あなたも、早く消えることができるといいですね」
と言った。その言葉で、私の分の水引を、青年が持ちあわせていないことに気づかされ——私は酷く悲しかった。
庭を見ていた青年は、ぽつりとそう言った。
「昔々、ずっと昔のことですけどね。師匠の元に、遊女が一人来て、助けてくれ、助けてくれないなら殺してくれと言ったそうです。見ると、片目が無くて、手の指も何本も欠けていた。そもそも遊女になるような女は、生まれたときから苦界にいるようなものですからね。そのほとんどは、金で買われて弄ばれて、良い目を見る事無く息絶える訳です」
私はすぐに、都電三ノ輪橋の駅からすぐのところにある浄閑寺のことを思い出した。吉原に近い場所で、投げ込み寺として知られる。つまり、吉原で亡くなった遊女の死体が投げ込まれた寺だ。寺ではそうして投げ込まれた遊女たちを、無縁仏として供養したという。
「師匠は、人は人の事を救おうとしても簡単には救えるもんじゃないって言ったそうですよ。でもね、その遊女に、こう持ちかけたんです。一年間だけお前さんの運を上向きにしてやる。上向きにしてやるけどな、只って訳じゃねえぞ。来年の大晦日にまたここに来て、その時にあんたが俺に何を言うかで、そのお代をもらおうじゃねえかってね」
その何代も昔の師匠という人は、青年のように、怪異聞きを生業としていたのだろうか、それとも何か別の仕事をしていたのだろうか。だが、私はそれについては問わず、青年の語るがままに任せることにした。
「それから一年が過ぎて、大晦日になりました。当然約束なんて守るはずはない。女は絶対に来ないと思っていたんですよ。だって、女郎の誠と四角の卵、あれば晦日に月が出るって戯れ歌もある位ですから。正直者の遊女なんている訳が無い。でも女は来た。ただちょっと様子がおかしい。それを見て師匠は納得したそうです。女がね、薄ぼんやりと青白く光っていた。つまりもう女は死んでたんです。幽霊だった。その幽霊が、師匠の前にすうと立って、お約束通り参りました、と言うんです。師匠があれからどうだったかね、と尋ねると、ええ、間もなくコロリと死ねました。ありがとうございました。死ねて良かった、もう痛くも苦しくない。身体を切り取られながら男に抱かれなくても済む。ありがとうございましたと言ったんです」
幽霊になったって苦しさが減る訳でも無いでしょうにねえ、と青年はぽつりとつぶやいた。
「その女も屍体は簀巻きにされて投げ込み寺に放りこまれたんでしょうけども、まるで回向されていなかった訳ですね。恨んでるかと言えば恨んでいる。悲しんでいるかと言えば悲しんでいる。けれども女の中心はそのどれでも無かったようです。師匠は一晩ずっとその女の話を聞いてね、女が何度も何度も仕方ないって言うのを聞いたそうですよ。貧しく生まれたから仕方ない。女郎になったから仕方ない。悪い男に引っかかったから仕方ない。生きていくには仕方ない。そして一晩ずっと話し続けた挙句、最後に女が一言、お代はいかがいたしましょうか、と尋ねたそうですよ」
私は、話を聞きながら、何とも痛ましい気分になった。だが、もう亡くなっている方が、どうやって代金を支払うのだろう。
「よし、お前は俺に憑いてこい。これから俺がお前が消えるまでいい目を見せてやるってね、師匠はそんな女達の首を、朱い水引で縛ってね。いつも後ろに何人も連れて歩いてたそうですよ。お前らにいい目を見せてやる。俺がお前らを満足させてやるってね。そりゃ師匠に話を持ってくる人の中には、他人を恨んだり悲しんだりしている奴らも山ほどいたんでしょうけど、師匠はそういうのには興味がなかったみたいですね。いつでも感情が無くなっているような女ばかりを連れて歩いていた。それも死んでしまった女ばかり。幽霊ばかりですよ」
そういえば、青年も確かに朱い水引を首に巻いた若い女を引いていた。あれは幽霊だったのか。
「連れ回している女は、最後に、号泣するんです」
思考を読み取られたのかと、私はどきりとした。
「生きている間に世の中に貸してたものを、女が全部返してもらった時にね、女は感情を思い出したように号泣して、それで最後、消えていくんですよ。浄土に行くのやら地獄に行くのやらは分かりませんけどね。まぁ、師匠は、死んでも死に切れてない女達を、最後まで看取っていたんでしょうかねえ」
青年は庭を見ていた視線をこちらに向けると、
「あなたも、早く消えることができるといいですね」
と言った。その言葉で、私の分の水引を、青年が持ちあわせていないことに気づかされ——私は酷く悲しかった。