怪異聞き「歪な女」

怪異聞き「歪な女」

 こんな場所で、仕事として成立するのだろうか。
 通りがかった者は、誰しもその人影を見て、少しばかり疑問に思う。ただ、その疑問は、数歩歩くだけで体から抜け落ちてしまう。
 印象が薄い。
 通りすがる人々は、家に帰って家族の顔を見たり、待ち合わせの場所で恋人と逢ってしまえば、そんな処に男が座っていたなんてことは、記憶の片隅にも残らないだろう。
 都電の東池袋駅から池袋方面に少し歩いた所から、左に折れた路地に、男は文台に白い布を掛けた「店」を出していた。その前面には、墨書きで「怪異聞き承り〼」と書かれた和紙を下げている。日暮れの頃から座り続けているが、客は一人もついていない。
 あえて客がつかないようにしているかのような振る舞いだ。
 時たま都電から人が吐き出されていたが、次第に人影もまばらになっている。
 そのまま、静かに時間が過ぎて行き、午前一時を過ぎた。
 都電の終電が出た。人通りが絶えた。
 通りは池袋駅方面から走るタクシーが通り過ぎる以外、車通りもまばらだ。
 大通りに面した、オレンジ色の看板の牛丼屋にも人は入っていない。
 だが、男は、そのまま文台を片付ける気配を見せなかった。何かを待っているようだ。
 そこに、不意に一人の女が現れた。
「すいません」
 女はか細い声で男に声を掛けた。
「お話、聞いて下さいますか?」
 その声を聞いて、
「どうぞ。お待ちしておりました——」
 凛とした男の声が応えた。

 女は歪な格好をしていた。
 顔の左右が非対称だ。肩の位置が違う。体が捩じれている。右足の膝の辺りは、関節が二つあるように曲がっている。
 あたかも複数の互換性の無い人形のパーツを混ぜ合わせて、無理矢理一つの人形を作ったように見えた。
「怖い話でないと、いけないんですか?」
「そんな事はありませんよ」
「何を話せばいいんですか?」
「話していただけることであれば何でも」
「長くても良いのですか?」
「もちろんです」
「短くても良いのですか?」
「もちろんです」
「安心しました。では、ご迷惑かもしれませんが——お話させていただきます」
 そして、
「あたし、一昨日、父の所から逃げて来たんです」
 と、女は話し始めた。

 父は、酷い男でした。
 酔うとね、娘のあたしに暴力を振るうんです。
 何か仕事とかで嫌なことがあると、
 母もね、そんな父に愛想を尽かしたんでしょう。あたしを置いて出て行きました。昔はね、母も奇麗だったんですよ。でも、出て行った頃には、酷かったです。両目は視力がほとんど無かったみたい。
 でもね、出て行っただけじゃなくて、そのまま川に身を投げて死んだそうです。
 遺書はあったそうですけど。
 それから、父の折檻は酷くなりました。火箸をコンロで焼いてね。それであたしの体に字を書くんです。
 母の名でした。
 そうよね。
 痛かったし、辛かったんですけど、母の事を愛してたんでしょうね。
 そうだわ。でも許せない。
 だから刺したんです。血が一杯流れてね。

 暗がりの中で、細い女の声が増えて行く。
 ぼそぼそと話する女の横に、もう一人二人、女が立ち、話している内容に、相づちを打っている。
 ただ、その相づちを打つ声が話す内容は、支離滅裂だった。嫌な記憶を単にこねくり回しては、女の話す声に重ねているようだった。

 刺した時にね、ぐえっと言いましたよ。ぐえっといった。いったわ。
 でも、その時に、父はあたしの顔に手を伸ばしてね、顔を引っ掻いたんです。
 目に指が入ってね。
 目に指が入ったわ。
 目にね。
 目。
 女の目は、歪な小さな顔に変わっていた。それも何かを話していた。
 歪な女のあらゆる部分が、歪な小さな女になっていき、それが一斉に話し出した。

 誰も言葉として聞き取ることが出来ないような。羽虫の羽ばたきが幾百も重なったような音が、路地に響いている。
 男はただ、聞いている。
 羽音のような音がし始めてから、数分が経っただろうか。
 「嘘だ!」
 女が声を上げた。
 精一杯の叫びのようだったが、それは喉を絞った、歪んだ針のようなか細い声だった。
 だが、それが合図だったかのように、歪んだ女に浮き出た、歪んだ女達の口から、
「嘘をつくな!」
「いい加減なことを言うな!」
「違う!」
「本当の事を言え!」
「本当の事を!」
 と叫びが上がった。
 声がするたびに、ずるりと、皮が剥けたかのように、女の一部が路地にずり落ちた。
 ずり落ちた身体の一部は、アスファルトに落ちる前に、黒い靄のように変化し、風に流されて行く。

「嘘だ」

 身体からあらゆるものがずり落ちて、最後、女の体は細い細い針のような姿になり、ついにはそれも消えて、とうとう影のようなものになってしまった。
 怪異聞きの男は、歪んだ女が影のようになったのを見届けると、
「まだ、貴女の最後の一言を聞いておりません」
 と、声を掛けた。
「こんなことまで話すはずじゃなかったのに」
 影が声を上げた。
「あたしの言った事、全部嘘なんですか? もう本当か嘘なのかも分かりません。自分が嫌いです。醜くねじけて、歪で、いじけて、本当に嫌いなんです。もう嫌なんです」
 女の声に、怪異聞きは、本当に澄んだ澄んだ声で、
「あなたなんて、消えてしまえばいいんですよ。もうとっくに死んで、魂も千切れているのですから」
 と言った。
「え——」
「貴重なお話を、どうもうありがとうございました」
 男の一言に、影は何かに気づいたように立ち尽くすと、はらはらと散って行った。
 天頂に満月の冴え冴えとした夜のことであった。